一人でも多くの笑顔に会いたい
Facebook 高校同窓生グループ仲間からの投稿「皆さんはどんな気分ですか?」に入れたぼくのコメントを投稿します(^-^)
純真無垢な子ども気分でいつもおもしろおかしく、たのしく過ごしています。
そういった環境づくりに努めています。
悪く言えばジコチュウってやつでしょうか(^^)
傷つきやすい性格なので、内心たいへんちゃたいへんですが、それだけに人を傷つけちゃいけないと強く思い実行しています。
ざけんじゃねえ!など、若者が切れる言葉を発しているのを耳にしますが、あれはいけませんね!
社会生活を乱す発言を悲しく哀れに思います。
現実は確かにそんなシーンもあるだろうけど、映画やテレビでそれを流すのはどうかと危うんで視聴しています。
結構乱暴な言葉遣いをしていることが多いようで、ぼくは少なからず心痛めています。
暗い言葉は世の中を決して明るくはしません。
優柔不断なタイプですが、頑固に断定することが多いです。
って言いながら、俺は何を発信してるんやろと?思っています(^-^)
人を不愉快にさせないように!
努めましょう!
ハイキングをたのしんできました(大阪瓢箪山→客坊谷コース→森のレストハウス→神津嶽コース→枚岡神社→瓢箪山)
昨日、往路は近鉄瓢箪山駅出発、客坊谷コースで森のレストハウスへ、昼休憩後復路は神津嶽コースで下山、枚岡神社から南西へ出発点の瓢箪山まで大阪・生駒山系の一部をハイキングしてきました。
近鉄瓢箪山駅出発後、市街地から外れ、客坊谷ハイキングコース入口と客坊展望台とのほぼ中間点付近? 休憩時、腰を休めた木の根っこにて腰を仰け反らせ、空を仰ぎ見上げて撮った写真です。
青空と太陽が時々、鉛色の空の破れ目、千切れ雲を引き割いて顔を出しましたが、多くは曇天で冷たい風が顔や手を撫でて通りました。
↑ 上の画像:撮影オリジナル
↓ 下の画像:Google フォト アプリ補正
客坊展望台から西方に大阪市内を望む
↑ 上の画像:撮影オリジナル
↓ 下の画像:Google フォト アプリ補正
下記マップは、今回のルートを赤線で示したものです。
近鉄瓢箪山易発、反時計回りに瓢箪山稲荷神社→客坊谷コース→客坊展望台(白丸&白文字:この写真撮影場所)→森のレストハウス→なるかわ園地休憩所→神津嶽コース→神津嶽ふれあい広場→神津嶽→枚岡山展望台→枚岡神社→近鉄電車線路に沿って出発点の瓢箪山着
マップは下記から拝借し、これ用に上書きしました(^^)
https://www.city.higashiosaka.lg.jp/0000007198.html
https://www.city.higashiosaka.lg.jp/.../hiking-course-1.pdf
風鈴屋さんが来たよ ♬
過日の上記ブログを記していて、『売り』という言葉が脳裏を駆け巡り、本田美奈子さんが亡くなったとき、ずっと何度も何度も聴き続け通し涙した「風流風鈴初恋譚」、久しく遠ざかっていた歌と歌詞が懐かしく蘇ってきました。
やっぱり素敵な曲だし歌詞です、ぼくには。
冒頭の『風鈴屋さんが来たよ』にはじまって、どこをとっても、その景色、その風、その心が浮かび上がり伝わって来ます。岩谷時子さんの歌詞、いつもながら雅で巧みです。
こういった感情、風情がこの日本から消えてしまったのでしょうか、昨今、このような曲、演歌を耳にする機会が極めて少なくなってしまったように思えて残念です。こんなこととは打って変わって、夏、暑くなると、風物詩、イベントがらみと言ったくくりで風鈴がいたるところに吊るされていたりで賑わいを見せることもありますが…
下記、ぜひ、お聴きください。また、暑くなったら、思い出してみてください。
風流風鈴初恋譚(フウリュウフウリンハツコイバナシ) / 本田美奈子
https://play.google.com/music/preview/Tpwr2aef3aahawdxvjuhl5rpatu?play=1
風流風鈴初恋譚(ふうりゅうふうりんはつこいばなし)歌詞
https://hagetaka.hateblo.jp/entry/18094274
いせひでこ著「七つめの絵の具」から
感動&同感!下記フレーズを共有させていただきます。
私は そのひとが蛾を追ふ手つきを あれは蛾を
捉えようとするのだらうか 何かいぶかしかつた(立原道造)
恋をすると、虫をはらう手つきまで特別のしぐさにみえてしまうのか。愛しい人を想う心は哀しい。心はみえるものでもみせるものでもなく、感じられ信じられることで存在し得るものなのだろうが、恋心より切なく辛いものがあることを、私はこのごろにしてようやくつくづくしみじみ思い知った。——子どもを思う時の気持。ー140ページ
親の権威どころか貫禄も信念ももちあわせないまま今日まできてしまった私だったが、子供たちの不安やいらだちや悔しさには敏感だった。そして自分に正直に生きることだけは共有してきた。
絵は説明やいいわけをするために描いてきたのではなかった。解説するくらいなら描かない方がよい。表現通りに受けとってもらえないことに不満をもつようだったらそんな創作やめた方がいい。思いもかけない解釈や感想に出会って、世界の広さに気づかされる。人の心にふみこむことができないように、創作の真意なんて強要するものでもひきずり出すものでもない。その人の今の瞬間で切りとり、時間や偶然がその瞬間を永遠にしてくれるにすぎないのだ。ー142ページ
子どもたちの発見の後ろからついて歩くのが好きだ。電線にハトが54羽もとまっていたよ。雨あがり、裏の石垣にナメクジが78匹もいたよ。アリの行列みるために道路にしゃがみこむから、登下校のわずか5分のはずの道がのびたりふくらんだりする。より道できる子どもの目はすてきだ。
小さな体をふるわせて全身で理不尽にむかっている長女の前で私はいつもなす術をもてないできた。12年前の母子の原風景がある。ー143ページ
そもそも「癒し」とは、与え・与えられるものなのだろうか。災害、事故、事件、戦争の被害者たちの前で善良なる社会派は「癒し」を連発したがるが、それはむしろ不謹慎なことではないだろうか。深く傷ついた人にとって、なぐさめは説教に、激励は脅迫に、応援は攻撃になることさえあるのだ。関係性を無視したところでは、よかれと思ったことが中傷や評論に変質してしまうのだ。ー147ページ
三叉路、五叉路あそび(^^)⁉︎
地図上、十字路(格子状)のなかにいる自分の位置は容易につかめますが、初めての土地、町で、ひとたび三叉路や五叉路などに足を踏み込むと自分の位置がつかめなくなります。
迷路のなかの自分に気づき、ぼくは鳥にでもなって高く舞い上がり町を俯瞰できたら助かるのにとおもいます。もっとも土地勘を十分養った身近な生活圏だと、たとえ三叉路や五叉路だろうと問題なく自分の位置がつかめるのですが…
いまはスマホアプリのMAPナビゲートで、まさに宙を舞うがごとく町歩きをたのしめる一方、徘徊をたのしみたいぼくには危険なツールと化しています(^-^)。